毒親の父のモラハラや家庭内暴力に苦しめられた姉妹の話

毒親の父のモラハラや家庭内暴力に苦しめられた姉妹の話家族のトラブル
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皆さんの父親は自分にとってどのような存在ですか。

褒めてくれる父親、厳しい父親、明るく陽気な父親。

私にとってそのような父親は、ドラマや映画、私の友達の父親には当てはまるのに、私の父親にはどれにも当てはまらないことに違和感を持っていました。

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私が毒親の父から受けたモラハラ

私が育った家庭は、ごく普通の家庭で、母と双子の妹、そして父との五人家族でした。

そして、子供のころから私にとって父の印象は「何もしない人」でした。

話しかけても答えてはくれなく、公園に遊びに行こうと誘っても無視をされ、よく泣いていました。

家事も私たちの世話も父はいっさい手伝うことなく、仕事以外のほとんどを自分の部屋でゲームをしている人でした。

それでもその時の私にとってはそういった無反応が面白いと思っており、部屋でゲームをしている父に一方的によく話しかけていました。

しかし、自分の父親が普通とは少し違うのではないかと気づいたのが幼稚園に入った時でした。

幼稚園の送り迎えに母が行けなかった日、私は友達とその友達の親と一緒に帰ることになりました。

送り迎えの時間になった時、友達が「今日はパパが迎えに来てくれるんだ。」と言い、その時の友達の言ったことに私はお父さんがお迎えに来てくれることがあるんだ、と驚きました。

そしてさらに衝撃だったのが友達の父親が送り迎えに来てくれた時、友達は父に抱きついてお話をしていたのです。

私の知っている父という存在は抱きついても「邪魔」と言われて退けられ、話しても無視をされることばかりだったので、友達のその光景に違和感を持ちました。

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しばらくして私が小学4年生の頃、私は父の誕生日にケーキを作ろうとしました。

母に手伝ってもらいながら生クリームを混ぜ、イチゴとスポンジにトッピングしながらクリームを塗り、不格好ではありましたが父のために作ったので喜んでくれると思い、帰ってくるのを玄関で待っていました。

父が帰宅し、私は父に「ケーキ作ったから食べてね」と言いました。

変わらず父の反応はありませんでした。

夕食後、ケーキを出そうとしたとき、父が自分の部屋へ行こうとしていたので、私は慌て、「作ったから食べてよ」と再び言いましたが、「いらない」と言われ、負けずに「見た目は変だけど一生懸命作ったよ」と言ったらしつこかったのか「いらねぇよ、そんなクソまずいのなんか」と言われ、私がカットして持っていたお皿を叩かれ、落とされました。

そのあとのことはとにかくショックで、どうなったかは曖昧ですが、母と妹が一緒にケーキを食べてくれたことだけは覚えています。

いままで父は食事の時だけリビングにきていたのですが、小学6年生になったばかりの頃に急にリビングに来ることがなくなり、代わりに私と妹たちがシフト制で父の部屋に食事の運び下げをするようになりました。

この日を境に私たち家族はさらに崩壊していきました。

夜寝る時は隣の部屋から父が母に離婚話をする怒鳴り声が毎日聞こえるようになりました。

寝たくてもその怒鳴り声は隣の部屋にいる私の耳に入ってきて、怖くて寝ることができませんでした。

そんな日が続くなか、いつものように私は父の部屋に食事を持って行ったとき、父が私に「お父さんの味方になってくれたら好きなもの買ってあげる。」と言ってきました。父のいっていることの意味が理解できなく、怖くなり、「嫌だ」と言ってすぐに部屋を出ました。

しかしそれは私だけに言っているのではなく、妹たちにも言っていました。妹たちは父の言動の意味を理解していなかったので、父の言いなりのようになってしまいました。「お姉ちゃんはお母さん派だからうざい」と言われたことは忘れられません。日に日に私の中で父親が憎い存在になっていき、父と妹たちに関わることを避けるようになりました。

その間、私は母だけが唯一家の中で信じることのできる存在でしたが、中学1年生になったころ、父の母に対する暴言、行動はエスカレートしていき、暴力を振るようになりました。

そのことを知った母方の祖父母は母に離婚を承諾して欲しいと言い、私と妹たちにも両親が離婚することをお願いされました。

そして母は、私と妹たちが学校に言っている間に連絡先の書いてある手紙を置いていなくなっていました。

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毒親の父の家庭内暴力が始まる

母が父に家を追い出されてからしばらくは、私は静かでした。

冷蔵庫には母が作ったポテトサラダが大きなボウルに入っていたので少しずつ、食べていました。

本当は離婚なんかしてなくて、ポテトサラダもなくなるから、戻ってきてくれるはずだと。そう信じていました。

妹たちはこんなことになるなんて思いもよらなかったのか、学校に行かず、引きこもるようになりました。

私は、学校には行けていましたが、心が不安定になり、怒りや悲しみの矛先を父や妹たちに当たるようになってしまいました。

しばらくして、父が知らない若い女の人を家に連れてきました。

そんな日が続き、私はその女の人がいる前で「お母さんがいい、あんたなんかと一緒にいたくない」と言ったとき、一瞬睨まれ、女の人がいなくなった後に父は私の両手首を掴み、足技を使い、転ばせ、耳元で「お前はあいつに捨てられたんだよ」と大声で何度も言われながら私が反抗を止めるまで何度も顔を打ちました。

その後、女の人は家に来ることはなく父も女の人の話をすることはなくなりました。

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経済力を理由に毒親の父と一緒に居続けるのは不幸せだ

毒親の父と過ごすことになった私の場合、逃げる選択肢があることはわかってはいましたが、行動することが出来なく、ただひたすらに自立していける日までを我慢していました。

私たちが母ではなく父に親権が渡ってしまった理由は経済力でした。

母のもとで暮らしても生活に困らせてしまうからと言われ、お金はあっても何もしてくれない父の下で6年以上過ごした日々は心が荒んでいきそうでした。

この文章は少しでも私のような理不尽な「幸せの定義」によって「不幸せ」になっている人たちのためになっていただけたらと思います。

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